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オリンパスペンで撮る、楠公史蹟巡り(その13) 楠木正儀墳墓

「大楠公」の地元の学校、多聞尋常小学校の校長先生が昭和10年に出された小冊子「史蹟赤坂と千早」を手に、楠木正成公の史蹟を訪ねる「楠公史蹟巡り」。

前回は千早赤阪村、「千早城址」と「千早神社」を訪ねたが、今回は同じく千早赤阪村の「楠木正儀墳墓」を見に行く。



楠公史蹟巡り 楠木正儀墳墓
OLYMPUS PEN W / E.Zuiko 25mm F2.8 / KODAK PROFOTO XL 100

金剛山の登山道「千早本道」を登る。

千早城址へ向かう分岐を2本過ぎ、さらに登っていく。

やがて、緩い右カーブの本道から逸れるような、左に鋭角に曲がる登り道が現れる。



楠公史蹟巡り 楠木正儀墳墓
OLYMPUS PEN W / E.Zuiko 25mm F2.8 / KODAK PROFOTO XL 100

登り道の先に鉄柵が。



楠公史蹟巡り 楠木正儀墳墓
OLYMPUS PEN W / E.Zuiko 25mm F2.8 / KODAK PROFOTO XL 100

正成公の三男、楠木正儀の墓と云われている五輪塔である。

「史蹟赤坂と千早」に見る。

千早城の後から金剛登山道を登ると、左方一小台地に数株の古松が茂っています。
この蔭に石柵を以ってめぐらされた五輪の石塔があります。
これが世に楠木正儀の墓といわれているものであります。
しかし里人は古来首塚さんと呼んで、大楠公の首塚と伝えています。
河内最古の地誌「河内名所鑑」にも「正成石塔」と記されてあります。


石柵の扉には菊水。

かつて、墓前に「延宝八年閏七月従五位下源総長」と刻した二基の石標が立っていたとの事である。



楠公史蹟巡り 楠木正儀墳墓
OLYMPUS PEN W / E.Zuiko 25mm F2.8 / KODAK PROFOTO XL 100

正行、正時、二人の兄を四条畷で失った後、楠木家の家督を継ぎ南朝の主力として戦うも、やがて北朝へ投降してしまう正儀。

太平記では「父にも不似兄にも替りて、心少し延たる者也ければ」、「此楠は正成が子也。正行が弟也。何の程にか親に替り、兄に是まで劣るらんと、謗らぬ人も無りけり」と酷評され、明治32年出版の楠公史跡案内冊子「楠氏遺跡帖」に至っては以下のように罵倒される有様。

「二十三年天皇崩じ給い正儀密に二心を抱けり。細川頼之機に乗じて之を誘い正儀遂に心を決し二十四年の春密に欵を義満に通ず。嗚呼是れ何の事ぞや。正儀は父に対して不幸なり、君に対して不忠なり。」

「正儀の義満に降るも或は計の一ならん乎。然れども正行正時に比するに甚だ穢れり。」

「嗚呼正成之を地下に何とか戚ぜん。穢なる哉不義なる哉。」

「之を正成の子正行の弟とすべけんや。」


いやすごい言われ方、七生報国の視点からすれば正儀の「変節」は許し難い事であろうが、ここまで来ると読んでいて気の毒に思えてくる。

でも私には、正儀は南朝の為力を尽くした天晴れな武将であるように思えるのだ。

幕府内部の権力闘争に敗れた末にやって来た武将の戦力を当てにしなければならないほど斜陽著しい南朝方にあって、幾たびも京の奪還に成功した軍略は父を、死を待つばかりの敵兵を暖かく救助した度量の広さは兄を彷彿とさせ、何ら劣るところはない。

北朝への投降も実は楠木一流の奇策、退潮著しく劣勢挽回は最早望みえぬ南朝に少しでも有利な条件で戦いを終わらせるために自ら北朝に身を投じその中で融和的下地を作る・・・後世の批判を省みず、死中に活を求めたのが楠木正儀だったのだと思う。



楠公史蹟巡り 楠木正儀墳墓
OLYMPUS PEN FV / E.Zuiko 38mm F3.5 MACRO / KODAK PROFOTO XL 100

とまあ、死中に活は私の勝手な想像に過ぎないのだが、劣勢覆うべくも無い南朝を慎重でありながらも懸命に支え続けてきた楠木正儀を悪く言う気にはとてもならないのが私の気持ちである。

というわけで、正儀さんに敬意を表し手を合わせ・・・ひょっとしたらここに正儀さんはいないかも知れないが・・・登山道をこのまま進んで、次回は金剛山を目指す。



楠公史跡巡り 楠木正儀墳墓

より大きな地図で 楠公史跡巡り 千早赤阪周辺 を表示


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